クリエイター 日常

クリエイターであり続ける為に

そこにしかないものにこそ魅力を感じる。散歩するとまさにそんな出来事が連続する。新しい店の発見、人との出会い、昔ながらの街並み、道端に咲く花、自転車や車では気づかない魅力にたくさん出会うことができる。歩くという行為は速度としては現代的でないかもしれない。ただ、そんな時代だからこそ、速度の緩急は今まで以上に新たな発見をもたらしてくれる。速さばかりを求める日常に浸っているからこそ、非日常がより特別なものになる気がする。

なにげなく、せわしなく、そんな平日の通勤経路。普段駅までは歩いて通っているが、休日に同じ経路を歩くとまた違った感覚になる。普段認識していなかった「そこにしかないもの」に気づくことができるのだ。気持ちがリラックスしているからなのか、視界が広くなるのは確かなようだ。電車に乗るといった「次の行為」がない状態、言い換えれば「次の行為は今の行為の連続」という状態を認識している瞬間がその今現在の視野を広げているのだろう。意識が今その瞬間に向けられている状態をつくる方法はたくさんある。瞑想とか。最近ではマインドフルネスとか。

今その瞬間に集中できていないことが悪いことではない。著者自身、どちらかというとすぐに別のことに興味が移ってしまう。だが人類学的には注意が散漫としている方が普通なのだとか。そりゃ、常に敵に狙われる狩猟時代の方が人類史的にはかなり長い。一点に集中すること自体が異質であり現代的であり、無理難題なのだ。全体の流れを把握したり、いろんなことに手を出したり、マルチスキルだったり、その方がよっぽど役に立つし身につきやすい(と著者は考えている)。一点集中型の作業は現代の天才に任せればよい。

学生の頃、哲学者のサルトルにハマったことがある。初めて読んだのは「嘔吐」という著書。日記風の文章で書かれており、実存主義について感覚的に訴えてくる。論理的な表現もあるが説明的ではない為、読者自身の日常と重ねながら理解が進む。その場所がもつ特異性がそこにいる人の感情や判断を左右する。実存主義者である主人公のロカンタンは、その特異性に吐き気を催す。

特異性とは情報である。場所は物理空間に限らない。我々は流れ込む情報を無意識に選別する。時には感情に流し込み、時には肉体に流し込む。加速度的に増加する情報は処理能力の限界を突破する。それでも我々は迫りくる情報を過剰なまでに摂取する。膨れ上がる情報に容量の限界を感じた脳は必然的に無意識への移行を始め、論理性を失うことで無駄を省き、ついには情報の変質を引き起こす。複数の情報とそれらのネットワークは一つのアイデアとして意識に表出する。表出したアイデアはカタチを成すことでデザインと呼ばれ、世界に影響を与え始める。

そんな産みの苦しみを快感として認識したのはいつからだろうか。たまに現れるセレンディピティやインスピレーションは苦しくもあり心地よくもあり、また麻薬的である。デザインの世界をこのように考えいる人はどれくらいいるのだろうか。

デザインの可能性を強く信じている日本人はどれくらいいるのだろうか。

✳︎当記事の関連著書✳︎

嘔吐

嘔吐 新訳

個人的にはサルトルの「嘔吐」は原書の方がおすすめ

実存主義とは何か

存在と無〈1〉現象学的存在論の試み (ちくま学芸文庫)

存在と無―現象学的存在論の試み〈2〉 (ちくま学芸文庫)

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